お疲れさまです。

今年の後半戦は、久しぶりにブログ熱を盛り返している状況でございます。

今日は、というか最近の息子との日常を通して、自分自身にも言い残しておきたいことがあるので、今日はそのことについて書き連ねようと思います。

2歳前後の幼児との向き合い方で悩んでいる方がいれば、少しでも参考になればと思います。

息子に水をかけられた時に思ったこと


今日は仕事の昼休みにベランダで息子と水遊びをしていたのですが、アクアガンをぶっ放している最中に息子が僕にバッシャーンと水をかけてきました。

「おうおうやってくれるやないの、あ〜服が濡れちゃったよ、着替えないと、ちゃんと上手く操作してくれよ、頼むぜおい…」

と思ったのも束の間、とはいえ息子は悪気はないよなあとも思えてきました。

その前の行動はというと、リビングの窓ガラスにアクアガンをぶっ放して水飛沫が跳ね返ってくるのを息子はただ楽しんでいただけにすぎませんでした。

少し角度を変えようとしたタイミングで誤ってその角度がいきすぎて、ちょうど突っ立っていた僕に当たったわけです。

なので息子としては僕に水をかけようとしたのではなく、たまたま方向転換しようとした先にオヤジが突っ立っていたにすぎなかったのだと思います。

息子はまだ話せないので想像するしかないのですが、恐らくはそう。多分。

と考えた時に、こういう些細なでもちょっとした自分にとっての嫌なことというか、不快なことってのは、一見すると息子のミスのように見えますが、ふと視点を変えてみるとそうではないなと気づきました。

2歳の子どもは悪気を持って何かをすることはない


これまで息子と過ごしてきた2年ちょっとの中で、確実に言えることは

息子は悪気を持ってした行動は一度もない

です。

これまでも、たとえば息子と遊んでいる最中にぶん殴られたことはしばしばあるのですが、思い返すとそれはやっぱり悪気がなかったように思います。

息子がトミカを滑らせている時に、楽しすぎて興奮しているすぐ横に僕がボーッとそれを眺めていたために、たまたま次の車を取ろうと手を伸ばしたところに僕の頬があり、ストレートをもらいました。

イッターとその時は思いましたが、今になって冷静に考えるとそんな近くで見る必要もなかったし、息子としてもオヤジそこにおったんかい、しかも顔が、と思ったことでしょう。

他にも、一緒にお風呂に入っていた1歳後半のとある時に、シャワーの面白さに気づいてひたすらシャワーを止めずにずっと出しっぱなしにして色々な方向にシャワーを流し続けたことがありました。

実を言うとこの時、「水がもったいないから”ダメ”」と言ってしまったのですが、今でも凄く後悔しています。

というのも、その言葉を言う直前までは息子はキラキラした目でシャワーから流れる水を眺めていたのですが、その言葉を発した直後に息子はひどく悲しそうな顔をして、その後は意気消沈してしまいました。

この時、「ダメ」という言葉がこれほど子どもにダメージを与えるモノなのかと、息子の顔を見て痛いほど理解しました。

なんというか、泣かれるよりも辛かった…

息子には悪気があるわけではなく、むしろ興味を持って半ば実験、下手すると人生初の体験にワクワクしているその真っ直ぐ気持ちを、僕がへし折ってしまったわけなので…。

このあと数ヶ月に渡り、シャワーで遊ぶことは一切しなくなってしまい、僕は息子の可能性というか、興味の一つをぶっ潰してしまったという後悔と同時に、ある種ダメと言うことへの疑念というか、疑いのようなもの抱くようになりました。

大人視点・大人の当然はまだ子どもには無い


もちろん、命の危険や本当にやってはいけないことに対してはダメという必要はあります。

なぜか、1歳くらいまで息子は危ないことに対して「ダメ」と言うとブルブルっと震える癖がなぜかあり、最近はそれは無くなったものの一般的な反応でもある悲しそうな顔をしたり、泣いたりするようになりました。

先ほどの例もそうですが、シャワーで遊ぶことは大人になってはやらないし、シャワーは遊ぶものでもなく出し続けると水道代が無駄になるので「やるべきではないこと」として大人目線では当然のことになっています。

でも、子どもにとってはそんな当然はまだ知らず、大人視点で自らの行動を制御するわけないので、やはり純粋に自分の興味のある目の前のことに集中しています。

以前、息子のそれをへし折ってしまったことをすごく後悔していることもあり、僕はそれから「ダメ」と言いそうになった時に、「本当にダメなことなのか」を考えるようになりました。

結果として、「ダメ」は割とダメではないことがわかってきました。笑

ダメと瞬間的に言わなければならないことは、ダメではなく「危ない」であることが多く、ダメはやっぱり大人視点であることが多いように思います。

例えば、めちゃめちゃ遊びに集中している時に、ちょうど夕食の時間になってしまい「はい終わり、ご飯だよ」と切り替えさせようとしたことがありました。

もちろん息子は、「なんでやねん!」と怒り暴れたのですが、改めて冷静に考えると確かに親の都合で始まる飯だよなあと。

大人でも、一人暮らしの時なんかはその時に食べたくなくて後回しにすることなんてよくある話で、それは子どもにとっても同じです。

ということに気づいてからは、いきなり切り替えさせるのではなく、徐々に誘う作戦を使うようにしています。

効く時もあれば効かない時もありますが、いきなり大人の視点で行動を変えさせるよりかは、まず息子の視点で今目の前で起きていること見て、どう動いているのかを観察することで、その後の息子との行動による対話が成り立たせることができているような気がしています。

時に今はまだ話さないからこそ、なおさらですね。

子どもは純粋に挑戦しているだけ、それを親はどう見守るかが重要


そうやって一度息子目線に立つことを習慣にしていると、息子はただ純粋に目の前のことにどんどんチャレンジしているように思えてきます。

なので、やっぱりそれを無理に自分たち大人のペースに引っ張り込むのではなく、グッと堪えて見守る、「ダメ」というラベリングをしないことが重要だと感じています。

大人にもペースがあるように、2歳の子どもにも少しずつ「マイペース」が出来始めているわけで、そのペースをよく見る、そしてそれに合わせつつ、一緒にしなければならないことがあり必要であれば誘導していく。

そうすることで、泣かせたり悲しい顔をさせたりせずに、家族のコンセンサスが取れるのかなあと思っています。

怒るのではなく、受け止め、そしてよく”見る”


子どものちょっとしたミスや、自分が嫌と感じる行動があったとしても、それは決してミスしたい、嫌がらせしたいわけではないんですよね。

あくまでも彼らなりにやってみて、どうなるか、フローに入って楽しくなってきた時にふとそうなってしまった、偶然起きてしまったということが往々にしてあるようです。

なので、それを反射的に咎めたり怒ったりするのではなく、頑張ってまずは受け止める。

そうなってしまったことにこちらがすぐにアンサーをするのではなく、そうか、とまずは状況を受け止めて、そしてよくそれを見る、子どもを”見る”、見て考えた上で、ゆっくりと解釈して判断していく。

それができれば、子どもの今から未来が見えてくるような気がしています。

子どもができてからというもの、昔は「反省」や「準備」と変わってきた人生のテーマが、「見る」になってきています。笑

「見る」って抽象的だねと妻には言われますが、色々な意味を含んでいて、それでいて実は深い行動なのかなと思っています。

「見る」は今この瞬間を意味づけるための重要な習慣なのかもなあ。

明日も、息子と妻を、見る!

カテゴリー: EDUCATION

勇樹

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