お疲れさまです。
地元の友人が亡くなり、昨日と今日は急遽ですが北海道に弾丸帰省しておりました。
フルリモートの身だと、移動中も仕事ができてしまうのが良いのか悪いのか。
空港まで迎えに来てくれた友人の車で、最後まで粘って仕事をしたという自分をアピールしておきます。笑
という冗談はさておき、今回の弾丸帰省で多くの友人たちに10年ぶりかに会い、思うことも多々あったので書き残しておこうと思います。
前日予約で飛行機代は往復12万円、なかなかの出費でしたが結論行って良かったです。
家族と結婚して友人との関係が疎遠になってしまっている方、友人と会いたい思いはあるけど子どもが小さく家族の負担が気になって会う時間をつくれずにいる方にとって少しでも参考になれば幸いです。
いつも一緒にいるのが家族
僕は今、北海道を遠く離れ、妻の実家が近くにある広島に住んでいます。
現職への転職を機に一度は広島から千葉へ引っ越しましたが、会社に掛け合ってまた広島に戻ってきました。
この選択自体は妻のため、息子のため、妻両親を含む親戚のため、そして僕自身が広島が好きということもあって、非常に良い決断だったと思います。
家族というのは他の誰よりも一緒にいる時間が多く、じいちゃんばあちゃんが同じ北海道の市内のすぐ会えるところに住んでいたこともあり、妻両親や妻兄弟家族とすぐに会える今は千葉にいた時よりも家族関係の有難さ、大事さを感じることができています。
たまに一緒にいれるのが友人
結婚したり、実家にいたりすると家族というのはいつも一緒にいる存在ですが、方や友人という存在はその間を縫うように”たまに”一緒にいれる存在です。
もちろん、一人暮らしをしている時は、ずっと一緒にいる友人もいるでしょうし、僕も実際に大学の時は仲の良い先輩と週3〜4で飯に行ったりブラブラ買い物に行ったりしていましたが、まあそんなことはそんな時間や相手はそういるもんじゃあなので、やはりたまにというのが友人の存在でしょう。
家族ほど長い時間一緒にいるわけではないけれど、でも仕事の同僚や知人とは違い、その”たまに一緒にいる”時間が多く、かつその時間が後に残る”思い出”となるような存在が友人と言えます。
家族と友人は過ごす時間の中身が違う
もちろん、家族と過ごす毎日の中にも多くの思い出が生まれますが、友人と過ごす時間でも思い出が生まれます。
そしてその思い出は当たり前ですが家族とできる思い出とは違い、それは行く場所や見る景色、感じ方といったシチュエーションが異なるからであり、つまりは、友人と過ごす時間の中身が家族と過ごす時間の中身と違うからです。
例えば、今だと家族とよく行くのがショッピングモールだったり、遊び場だったりします。
そこで得られる思い出は息子の楽しむ姿、微笑んで見守る妻の姿、それを見てニヤニヤする僕の姿といったとこでしょうか。
方や友人たちとは社会人になるとフットサルに行ったり、スーパー銭湯に行ったりしました。
そこで得られる思い出は互いに汗を流し「あのプレーはああだこうだ」談義、仕事の悩みについて語らうといったものです。
書くだけでも、やっぱり何をするか、何を話すかが全然違いますよね。
今回の帰省では、同じサッカー部だった親友、チームメイトらが空港まで迎えにきてくれたのですが、お別れ会に行くまでに仕事や家庭の話、今何を頑張っていて、会わなかったここ数年で起きた大変なことを話しながら向かいました。
家族と友人は比べるモノでなくどっちも大切なモノ
お別れ会では、もう話すことはできないけれども亡くなった友人に会えて、その仲良しグループの面々にも会えて(皆友人たち)、他にも僕が小中の時に何度も遊んだことのある友人たち、当時のクラスメイトにも会えました。
久しぶりに「どこにいるのか?最近どうだ?」と話し、お互いの近況を知れたりその後の変化を知れたり、でもなんか皆昔から変わらないところがあって親近感が残っていて。
高校以降、社会人になってからも何度か会った友人もいればそうではない友人がいても、彼らと過ごした時間というのは家族と過ごす時間とは違い、別の充実感をもたらしてくれたように思います。
「彼らも頑張っている、自分も頑張ってみよう」
そんなふうに思える再会になったし、もっと言うと、誰も地位や肩書きや稼ぎで話すことはなく、一人一人の存在そのものと向かい合って話したような気でいます。
友人ってのは過ごす時間が家族とはまた異なる良いもので、かつ関係性は仕事などで付き合う同僚たちとは違い「仕事がデキる可動化」なんてどうでもよく、「お前はお前でいてイイ」と認め合える関係なのかもしれません。
そんなことに気づき、安らかな気持ちを感じた時に、僕はこれまで
家族は友人よりも大事
家族以上の存在はいない
友人と会う時間よりも家族
と常に家族と友人を比べ、優劣をつけて友人たちと合わない自分を正当化してきました。
ですがこれは間違っていたなと、本当は家族も友人もどちらも大切なモノなのだと実感しました。
それに、確実な約束ではないんだけれども未来に少し楽しみを添えることのできることを残せるのも、友人だからこそですよね。
「またね」
この言葉を言い合って皆と別れましたが、家族には言うことのない、友人だからこそ言える特別な言葉だなと再認識しました。
昔は当然のように言い合っていたからこそ、今は次のまたまでに長い時間がかかるからこそ、なんかスゲーイイ言葉なだと思いました。
仲の良さのグラデーションはあれど、”友人”は一括りで良いのかもしれない
今回の帰省で、このブログを作ってくれた親友とも久しぶりに会えたのですが、
「いや〜俺なら12万円を払ってまでわざわわ広島から来れないわ。笑」
と言われました。
まあ確かに、亡くなった友人とは小中の9年間で何度かクラスメイトになり、クラスメイトになった時は一緒にグループにいて修学旅行のホテルでも同じ部屋になる程度には仲が良かったですが、中学を卒業後は僕は彼の1番の仲良しグループにいたわけではないので、たま〜に街で会ったら久しぶりと少し話す間柄でした。
行かないという選択肢の方が大きかったのですが、亡くなった友人の仲良しグループの1人(彼もまた何度も遊んだことはある友人)が僕に個人でLINEをくれて、
友人が亡くなったこと、お別れ会が終わってひと段落した後に知るのは悲しいのではと思ったこと、遠くからだと大変なことは承知だが来れるならお別れをしに来てほしい
と言われました。
歳を取ったからかわかりませんが、シンプルに声をかけてくれたこと、大変だとわかっているけど会ってやってほしいとお願いしてくれたことが嬉しかったように思います。
今回の帰省で会った友人たちとは、いろいろなグラデーションがありました。
- 帰省のたびに会う親友
- 帰省のたびに会ったり東京に来たときに会う時間を作ってくれた友人
- 大人になってからも一緒にフットサルをしていた友人
- 大学時代や社会人になってから飲みに行った友人
- 大学生の時の同窓会で久々に再開した友人
- 中学を卒業後は一度も会わなかった友人
色々と違いはあれど、それぞれに良い思い出があり、これまで僕は友人にも優劣をつけてしまっていた気がしますが、皆一括りに”友人”で良いのでしょう。
優しい時間を共有した懐かしい過去があり、またねと言える間柄であるならそれは友人。
これまではその友人の上位何人かを抽出して、「僕は友人が少ない」と言ってきましたが、今回の帰省でそんなことはなかったのかも、むしろ友人に囲まれてきた人生だったのかもしれないと再認識できた
最後の死に様に人生が表れる
最後に、友人のお別れ会で感じたことも書き残しておこうと思います。
亡くなった友人のお別れ会には、それはそれは多くの方々が参列し、今までに見たことのない人数でした。
それは彼がこれまでどんな人生を歩んできたか、どんなものを残してきたのかを象徴しているものだったし、仲良しグループの弔辞がまさに彼との関係性を表していました。
シンプルに羨ましいなと思ったし、そのグループの絆を見て友人ってやっぱり素晴らしい貴重な存在だなと思ったし、どんなふうに死にたいかを改めて考えながら、毎日を大事に生きたいなと思った次第でございます。
太陽のような存在だった翼の死に様は、太陽にように眩しかったです。