生徒と関わっていると、一定割合で人を見下すことで自分の価値を保っている人間がいます。
これは大人でもよく見ますが、結局そういった類の人間は、「自分の弱さと向き合うことを避けている」という問題が根底にあります。
僕は今、町内の2校の高校で塾を実施していますが、その2校がこれまた対称的で面白いのです。
両校を比べると、学力の低い方は、ある意味で開き直って他者の目線を気にすることなく伸び伸びと過ごしています。もう一方は、確かに学力は高いけれどそこまで劇的な差があるわけでもなく、当人たちは見下しているようですが、僕から見ればほとんど変わりません。
どちらも僕の目線からすれば、変わるべき点がたくさんあるようには見えますが、とはいえ変わるかどうかは当人たち次第であります。
「もっと自分自身を変えていけたら、人生面白くなると思うのにな~」くらいの距離感で、最近は彼らを見守っています。
前者の学校の生徒は、確かに学力は高くはありませんが、それなりに自分がしたいことや興味のあること、新しいことに対して前向きな反応を見せます。
学力が低い子とも決して卑下していませんし、むしろ低い中でも変わろうという意識を意識的に持っていなくとも、自然と一歩一歩着実に成長しています。
ところが後者の学校は、「やるべきことを与えてくれる」と思っている生徒が多く、自分自身で「今日はこれをする、これを知りたい、今はこれに興味があるから調べてみる」といったものが一切ありません。
その癖自分よりも劣る他人と比較し、自分が上にいることに満足しています。そりゃ自分よりも低い人と比べれば上にいるなんて当たり前のことで、その視点だけで自分の立場を理解しようとしても意味はありません。
相対的に自分の立ち位置を見る時は、様々な視点で見ないことには正確に理解することはできません。
彼らは自分たちの上と自分自身を比べることは決してしないため、一般的な高校生に対して自分たちはどのくらいの差があるのかを把握せずにずっと過ごしています。
結局、それを先生も教えようとしないため、勝手に自分たちにとって気持ち良くなる視点からの立ち位置確認だけに留めてしまっていて、周りが見る生徒たちの現状の立ち位置と、自分自身が把握している立ち位置の間にそれはそれは大きな隔たりがあります。
この認識の差を埋めることはできるのでしょうか?
答えはできません。
こういった人間は、自分自身にとって甘い評価しか耳に入れようとしないですし、そもそも学校自体がその認識を改めようとせず、生徒の誤った自己肯定感を肥大化させてしまって手の施しようがない段階に行き着いてしまっています。
残念ですが、社会に出て痛い目を見ることでしか処置の施しようがないでしょう。
過去の僕も、自分より劣る人と比べて勝っていることに優越感を抱くことで、他の弱い部分を見ないように、甘ったれた自分をさらに甘やかすことに必死でした。
とはいえ、この逃げ続ける道には終わりはないんですね。
進めば進むほど、自分の首を絞めることになります。
なぜなら、成長できなくなるからです。
これに気づくことができたのは、結局自分自身で「人を見下すことによって己の弱さから逃げている」ことを認識できた時でした。
僕の場合は、大学時代に社会人クラブの先輩方が圧倒的な差を見せてくれたことで、これまでいかに狭い場所で図に乗っていたか、それが恥ずかしいことであったかを理解することができました。
もちろん最初は辛かったですが、今となってはそれを認識できなかった場合を想像するとゾッとします。
僕たち人間が成長する時は、自分の理想であったり、自分よりも優れた人に少し手も近づきたい、追い越したいという想いを持って努力している時以外にありません。
ですがもっと優れた人は、そんなことも考えずにとりあえず行動、まずは行動、隙あらば行動でモチベーションに左右されることなく突き進みます。
彼らはいつ気づくのでしょうか?人を見下すことによって、ただ自分たちが逃げ続けているということに。
こう言うと、「いやまつをが気づかせてやりゃあいいじゃん!」と言う方もいるでしょうが、僕も何も仕事していないわけではないのでね。
あらゆる手を使って、認識させるためのアプローチを施したわけです。
その度に言い訳と他責を使って逃げるので、もういいやと思っているわけです。
結局は、いつもの「人を変えることはできない」という結論に戻ってくるんですね。
これが教育のもどかしいところですよ…。
今日は結論を最後に持ってきますが、人を見下すことのデメリットは2つです。
1つは、自分自身の立ち位置を正確に認識できなくなること。
もう1つは、己の弱さと向き合う機会を失う結果、成長できなくなること。
僕はこの2点が挙げられると思います。