有名無力・無名有力の意味とは?安岡正篤の思想や老荘思想を踏まえて考察

気づけば2月に入り、あともう少しで春。

北海道も日照時間が長くなり始めており、気持ちも前向きになってきた気がします。

今年度も仕事やプライベートで色々なことがありましたが、何とか新しい土地で1年を乗り切れそうでございます。

嬉しいねえ。有難いねえ。

さて、そんな気持ちが上向きつつある今回、急ではありますが僕の大好きな言葉である

有名無力・無名有力

について、考えていきたいと思います。

というのも、仕事をしていたりサッカーをしていたりすると、どうしても

  • もっと仕事がデキて周りから評価もされて、チヤホヤされたい
  • 周りにサッカーの実力を見せつけて、上手いと褒めてもらいたい

などといった、弱い自分のエゴが日々見えてしまうもので。

そんなエゴが見えたときに我に返るために、僕はこの言葉を紙に書いて部屋の扉に貼っています。

この言葉と出会ったのは、大学時代に『やりすぎ都市伝説』というテレビ番組を見た時でした。

そこでオリエンタルラジオのあっちゃんが、「昭和史を裏で動かした人物」という話の中で、「有名無力無名有力」という言葉を出していたんですね。

いつもならそういった言葉を聞いても、「へ~」と思って終わりなのですが、なぜかその時に聞いたその言葉はその後も僕の中で強烈に残り続けて、様々な失敗の機会の度によく思い出されました。

なので心にゆとりもある今日はせっかくなので、この言葉についてじっくりと考えていきます。

「有名無力・無名有力」の意味と安岡正篤


まずこの言葉の意味を簡単に説明すると、

「有名になればなるほど力を発揮しずらくなるが、無名であれば陰から力を発揮し続けることができる」

です。

その番組でのあっちゃんの話では、昭和時代の数々の総理大臣のアドバイザーとして、表舞台には一切出ずにずーっと裏から日本の政治をサポートし続けた安岡正篤という人物が取り上げられていました。

とはいえ日本史を勉強していても、この名前の人物を見かけることはほとんどありませんよね。

なぜでしょうか?

それは、安岡正篤がこの「有名無力・無名有力」の言葉の教えを守り続けていたいたからです。

つまり、大衆の前に出ないことで無名を貫くことができ、無名であるからこそ大衆の意見に縛られることなく自由に政治家たちに働きかけて、裏で政治を動かすことができたのです。

大学を卒業して以降、しばらくこの言葉の存在を忘れてしまっていましたが、先日、友人との会話の中で、友人が以下の文を引用したことで、改めて「有名無力・無名有力」という言葉を思い出しました。

…安岡正篤先生は勉強会でよく「有名無力 無名有力」と言われた。

有名無力無名有力とはこういう意味だ。

「若いときには誰もがひとかどの人物になりたい、立派な会社を作り上げたいと一所懸命努力をします。

だんだん頭角を現し、人々の評価もいただけるようになって、名が上がって有名になってきます。会社の規模も大きくなってきます。

そうなるとちょっとした名士になり、講演を頼まれたり、新聞に原稿を書いたり、テレビに出演したりして、だんだん忙しくなってきます。

そしていつのまにか自分を掘り下げる時間すらなくなって、有名ではあるけれども無力な人間になり下がることが多いものです。

しかし、世の中には、新聞、雑誌に名前が載るわけではない、テレビのスポットライトがあたるわけでもないけれども、頭が下がる生き方をしている方がいらっしゃる。

無名だけれども有力な生き方をしていらっしゃる…

安岡正篤はWikipediaの記事を見てもわかるように、異常な数の著作を残していることからその頭の良さが伺えます。

さらに著作のタイトルに注目してみると、東洋思想がテーマになっているようで、中でもとりわけ老荘思想に着目していたと考えられます。

ではその、老荘思想とは一体何でしょうか?

老荘思想とは?


みなさんは「老荘思想」とはどんな教えなのかをご存知でしょうか?

老荘思想とは、古代中国の思想家である老子と荘子の思想の合体版のことを指しています。

両者とも、当時住んでいた田舎町の住民たちから、その際立った賢明さを国のために生かしてほしい惜しまれながらも、田舎でひっそりと暮らし続けた人物になります。

彼らは生涯を通して人前に出ることはなかったので、自らの思想を政治に使う機会はありませんでしたが、自身の思想をそのまま自分の姿勢や生き方に反映していました。まさに彼らは、自身の生き方をもって「有名無力、無名有力」の素晴らしさを伝えたのです。

そんな彼らの思想は、彼らを心から尊敬していた周囲の人々によって受け継がれ、東洋思想の中の一つとして今も残っています。

無理をして生きる必要はない。

名声や栄誉を求める必要もない。

力強く生きていく必要もない。

ただ、自由に柔らかく生きていくがよい。

「有名無力・無名有力」の他にも老荘思想では似た言葉に、

和光同塵

という言葉があります。これは「光るものを持っていてもその光を和らげて、塵と同じくなれ」という意味です。

日本のことわざにも、

「能ある鷹は爪を隠す」

というものがありますよね。このことわざの説明は不要だと思いますが、意味は先の2つの言葉と同じようなものです。

老荘思想の根底にある思想は「柔よく剛を制す」、つまりは剛腕で物事を行うのではなく、柔軟に物事に対応していこうというものです。

能力は必ずしも見せつけるものではなく、必要な時に取り出せるものであるべきだということでしょう。

他者からの称賛を目的としてはいけない


何か大きいことを成し遂げたいと思って行動していたのに、有名になってチヤホヤされてしまい、気づけばその状態に満足してしまうことがあります。

当初の目的は「大きいことを成し遂げる」ことだったのに、それがいつしか「チヤホヤされること」にすり替わってしまうわけです。

これってよくありますよね。

僕もそうで、「人に貢献する仕事がしたい」と思っていながらも、時おり自分自身を振り返ってみると、どこかに人から褒められたい、認められたいという感情を優先して動いてしまっているときがあります。

そういった感情に支配された行動は、一時的には上手くいくかもしれませんが、長続きすることはないんですよね。

その感情、言い換えると欲望とも言えますが、それって終わりのないことなんです。

称賛や栄誉、地位は誰しもが気づいたらついつい欲っしてしまう、言わば麻薬のようなものです。薬は服用し続けると、麻痺して効用も薄くなり、多量の服用を必要とします。

こういった欲望は、欲し続けるとキリがありません。

その欲望の終わりを決めるのは、制限をつけるのは自分自身しかいないんです。

本を読むのが面倒な人は、ぜひ中田敦彦のYoutube大学の動画を見てみほしいです。

東洋哲学史の「老荘思想」の回は、まさにこの「有名無力、無名有力」の思想の根源を解説してくれています。

素朴愚拙


最後に、「有名無力、無名有力」と似た素敵な言葉を一つ紹介しておきますね。

行徳哲男は『感奮語録』という本の中で、こういう特徴を持った人の素晴らしさを説いています。

味わいのある人とは、「素・朴・愚・拙」の人。

「素(そ)」

素のよさは何も身につけない。

木を見るとわかる。

枝葉をつけた木は見栄えはいいが、滋養は枝や葉が吸ってしまい、幹は弱る。枯れ木は見栄えこそないが、実に力強い。

これこそが「素」の魅力

「朴(ぼく)」

言うなれば泥臭さ。

柴田錬三郎がシベリア抑留中の話を書いている。そこに極寒のなかで靴下をしばしば盗まれたという話がある。

盗人はインテリや育ちのいい人間だったという。

それに対して「俺の靴下を履けよ」と情けを示したのは、魚屋のおやじやヤクザ者だったそうです。

限界状況で情を示せる人間には、どこか朴訥な田舎っぽいところがあると柴田錬三郎は言っています。

「愚(ぐ)」

アホになれる、馬鹿になれることそういう人物の下にはたくさんの人が集まる。

この人のためにと皆が思う。

これが本当の利口というもの。

目から鼻に抜けるような才たけた人間は慕われないし、人も寄り付かない。

利口は馬鹿であり、馬鹿は利口なのだ。

馬鹿こそ力。馬鹿力のゆえん。

「拙(せつ)」下手くそのこと。

下手くそな人間は魅力的。

今の時代、上手に生きる要領居士(こじ)があまりに多すぎる。

ゆえに人間の魅力がなくなっている。講演会などで、流れるように話をし、知識や情報も抜群にあるのだが、なぜか胸に響かない人がいる。

反対に、話はつっかえつっかえでヘタだが、妙に魅力的で味のある話をする人がいる。

「平凡にして、その味わい飽(あ)かざる人たるべし」

ちなみにこの人は、Wikipediaで検索しても出てこないほど無名有力です。

他人視点ではなく、自分視点で”生”を考える


世に名を知らしめた方が、達成感や優越感に浸ることがでます。

ただそれで気持ちよくなり満足して終わってしまうのは、何かを成し遂げたかったからではなく、ただ有名になりたかっただけというのが本音です。

「有名になりたい」などと思っていなかったのであれば、何かを成し遂げたらすぐ次の目標に移るものでしょう…たぶん。

確かに有名になればなるほど自由が効かなくなります。

しかし、無名であれば何をしようとも自由なのです。

僕もこのブログで自由に好き勝手なことを言えるのは、無論、良識の範囲内で自由に発言をしていますが、誰もこのブログに注目していないからです。

ただ、誰にも注目されないことには少し寂しさがあるのも事実で。

とはいえそれを悲しいと思うことこそが、「有名になりたい」という欲の表れなのでしょうね。

誰しも心の奥底に承認されたいという欲を持っていて、その欲を慎重に見極めて生きなければ、その欲せいで自らを危険に晒すこともあるでしょう。

大事なことは、力があっても無駄に誇示せず、その力を理解してくれる人が数人いればいいという認識を持てるかどうかでしょう。

「有名になりたいのか?それとも自由に生きたいのか?」を自分の頭で考え続けることが、最も重要なことなのでしょうね。

人生は決して二択ではないけれども、僕はやっぱり、これからも何にも縛られず自由に生きていきたいと思います!