自分は北海道在住ですが、去年よりも今年は暑い気がします。というか、年々季節の移り変わりの時期がずれ込んでいずように思います。

学生時代は4月に雪が降ることはありませんでしたが、今年はとんでもない大雪に襲われて交通事故を起こしてしまいました…。

また、8月で猛暑も過ぎ去っていたのに、最近は9月頭まで続きます。

こりゃあ地球温暖化の影響ですかね…。サステナブルディベロップメントゴールズが大事なわけか…。

さて、話を戻して今日はバガボンドの名言を紹介していきます。

『バガボンド』12巻

もう十分考えた …天下無双とは何か… そんなこたあ天下無双になってから考えるわ とりあえず今はそこまでのぼっていくのみだ 俺はただてっぺんが見たいだけだ


頂上を目指して岩壁をよじ登りながら、石舟斎とのやり取りや直近の浪人たちとの切り合いについて考える武蔵。

考えて、考えて、そして見えてきたのはいつも自分自身しか見えていない自分でした。

自分自身の今や過去については何度も考えてきて、それゆえもうそれでいいではないかとある意味で開き直ることができたのです。

つまり、たくさん考えてきたことを認めて、一旦は考えないという行動もとるということです。

赴くままに、今自分が向かっている方向にまっすぐ進んでいく。

「天下無双になったら…」と考えているうちは、天下無双に近づくことすらできないのです。まずは黙って、そこに少しでも近づけるよう、今の歩みを一歩でも前に進めることでしか、天下無双にはなれないのですね。

僕たちも、目標やゴールに捉われて、それを目指しているという自分自身に満足してしまったり、逆に目標やゴールの意味を考え過ぎてしまったりして、歩みを止めてしまうことはよくありますよね。

そのようなことはまったくの無駄であり、大事なことは少しでも上から広く景色を見ることができるよう、歩みを進めていくしかないんですね。

文句を言うことや愚痴を言うこともこれと等しく、そのようなことを言っている間は何も進展がありません。

そのような無駄な時間を過ごしている暇があれば、少しでも何か一つ学んだり、行動したりすることですよね。

『バガボンド』13巻

とらわれるな 攻撃の最中にしか隙はない 攻めと攻めならば 先を制し次の先をとる


宍戸梅軒、もとい辻風黄平との戦いの最中、黄平の鎖鎌に苦戦しながらも徐々に正気を見出していく武蔵。

鎖に捉われてしまうと鎌を見失い、その逆もしかり。

一枚の葉にとらわれては樹は見えない

という沢庵の言葉を思い出し、冷静さを取り戻します。

守の型に綻びは出にくいけれど、攻の型であれば前に出てくる分、黄平は武蔵の間合いに入ってきます。相手の先を突く準備をするために、敢えて型を崩して隙だらけの状態にします。

何事においても、常に気を張っている人には余裕がないため、周りの人も近寄り難いですよね。そうではなく、どこか隙があるのに、その間合いに入ると自らを優しく包み込んでくれる人が稀にいます。

そういった人は何かに捉われているのではなく、常に全体を見て、把握して、準備しているからこそ余裕を持っていられるのかもしれませんね。

これでもう…戦わなくて済む 殺し合いの螺旋から 俺は降りる


武蔵に決定的な一撃を食らわされた黄平。それまではまるで貪るように、戦いを欲し、死体を欲していました。

武蔵との戦いの最中も、生死を彷徨うその瞬間瞬間を楽しんでいました。

しかし、命に関わる決定的な一撃を食らった直後から、黄平の顔はどこか安心したような表情へと変わります。

これまでの終わりの見えない殺し合いの戦場から、ようやく自分は解放されるのだと。

自分にとって最高の楽しみであったと同時に、終わりのない苦しみへと続く道を進んでいる感覚があったのでしょう。

ですが幸か不幸か、これ以上は戦えない体になったことで、ようやくその道から降りることができます。喪失感と同時に、安心した気持ちを表すシーンです。

僕たちも、好きで好きでたまらないものが、密かにその反面辞めたくても辞められないという苦しみの面も併せ持っていることがあります。

例えば僕なんかは、偉そうに言えるものでもありませんがサッカーだったように思います。

好きだけど、これ以上は泥沼に向かっているようで、周りからは必要とされてはいるけれど、自分自身は衰えを感じざるを得なくて。

それでも続けるという選択肢も1つですし、辞めることも決して間違った選択ではないのです。

黄平のように外的要因で辞めるのも1つ、あるいは自分で踏ん切りをつけるのも1つ。

どの道を選ぶかはその人次第ですね。

自分を斬った相手に命乞いできるか? 生き延びるために 生きて誰かを守るために


これまで戦いに勝つことだけに執着していた武蔵は、2度の命のやり取りを経てしてなお、自分に命乞いをすることができる黄平に、自身の考え方を一変させられます。

命乞いをすることは弱さの証であると考えていた武蔵は、黄平が世話している女の子を1人にしないために、戦えずとも一緒にいることで守っていくために命乞いをする姿を見て、それまでの命乞いという行為に対する認識を改めることになります。

自分はその弱さを隠して、いや、見ないようにして生きてきただけなのではないか?

勝負に勝つことだけが本当にすべてなのだろうか?

勝つことは、ただ「勝ったという事実」であるだけに過ぎない…それが決して強さの証明になることではない。あくまでも、評価として残るだけに過ぎない…。

そして次なる旅の道中で、武蔵は不意におつうのことを思い出し涙するのでした。

今の僕たちが生きる世界で命を懸けた戦いなどありませんが、この場面は人に対して「謝ること」に置き換えることができるかもしれません。

僕たちは、自分の非を認めて謝ることは弱いことであると考えてしまうことがありますが、そうではありません。

謝ることで相手にバカにされる、自分を下に見られることになるなどと考えているけれど、実際にいざ謝られる立場になると、「自分の非を認めれるこの人は素敵だ」と感じるはずです。

自分の非を認めることこそ、次に生かすためのステップになるんです。謝るという一見恥ずかしく、周りからも冷めた目で見られそうな行動を、恐れず実行していけるからこそ、そこに本当の強さがあるのでしょう。

僕もそんな人間になり、そんな人間を笑わないようにしないとなと思わされます。

『バガボンド』14巻

ウム…その剣はお前を活かしているんだな しかし…お前を殺しもするぞ


この巻からは、武蔵のライバルとなる佐々木小次郎の成長物語が始まります。

小次郎は生まれつき耳が聞こえず親にも先立たれてしまいますが、元剣豪の鐘巻自斎に偶然拾われてすくすくと育っていきます。

耳が聞こえないなりに何かを感じ取り、言葉を操れなくとも行動だけで自身のメッセージを伝えようとする小次郎は、武蔵とは対極的で非常に面白い人物です。

純粋無垢で常に物事の本質的な行動を取る小次郎は、たくさんの人に慕われていきます。

武蔵にも様々な助言をしてきた沢庵は、実は小次郎の幼少期にも出会っていたようです。その時に、耳の聞こえない小次郎が自分の背丈よりも大きな剣を持って生き生きしている姿を見て、敢えてその刀で腕を斬りつけます。

剣は自分を楽しませてくれるものだとばかり思っていた小次郎は、その恐ろしい一面に出遭い思わず泣きだします。

とはいえ僕らも昔そうだったように、痛い経験を通して学んでいくのですね。

剣は、いや、すべてのものは良い面と悪い面を持っています。必ず一面では成り立っていないんですね。

まずはその両面を認識することで、そのもの本来の理解が深まります。

この出来事をきっかけに、小次郎はより一層剣の道にのめり込んでいきます。

『バガボンド』15巻

人生のほとんどを 剣に狂ってきた 刺し違えるとこまではやってみる


村の若い女の子を無理矢理めとる最恐の剣豪に歯が立たない村人たちは、鐘巻先生に対策を頼みます。

それまでは剣のみに生き、奥さんや子どもに逃げられてなお剣に狂い、すべてを失った鐘巻先生。

しかし、小次郎と出会ったお陰で、人生において大事なことは、自分が「守りたい」と思う人や場を守ろうとすることであることに鐘巻先生は気がつきました。

自分の最愛の娘を守りたいのに、力が無くて守れない悔しい思いをしている知人のために、錆びた腕を振り上げる決意をした鐘巻先生の言葉です。

カッコいい言い回しは一切ありませんが、その裏にある鐘巻先生の想いを想像すると、この言葉を挙げないことはできませんでした。

「守りたい」人を守るというという動機やその本気度って、その行動の成果がどれほどになるかに大きく関わってくるのではないでしょうか。

僕も「守りたい」と思うものが出てきた時は、自らの過ちで手放してしまわないように、決意を忘れずにいれる人間になりたいです。

バガボンドを読もう!


バガボンドは、自分自身と向き合うのには打ってつけの漫画だと僕は思っています。

ぜひ、手に取って読んでみて欲しいですね。

歩みを止めずに、一歩ずつでも前へ。

時には止まることも必要だけど、前に進む勇気を、前に進もうとする決意を忘れないこと。

カテゴリー: PHILOROPHY名言

まつを

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